2017年の夏、初めてインドへ行った時、滞在先で一緒に過ごしたイギリス人の方からマンダラアートの描き方を教えてもらいました。
ステッドラー社のカラーペンを使って中心から外に向かって描いていくというものです。
定規、分度器、コンパス、鉛筆、ペンと紙があればどこでも描くことができます。
持って行った小さなスケッチブックに見よう見まねで描いたものがこれです。
上手にはできなかったけど、描いている時心が躍りました。
こういうの大好きだ。
昔々小学生から中学生くらいの時にマンダラを自分で描いていたことがありました。
残念ながら(幸いにも?)その絵はもう残っていないと思うけど、楽しかったことは覚えています。
日本に帰ってきて、さっそく制作にかかりました。
教えてもらったやり方と、自分のやりたいやり方を組み合わせて、少しずつ、気の向いた時だけ描きました。
3ヶ月かけてできあがったものは、想像もしなかったものであり、同時に想像通りのものであり、とても不思議な気持ちになりました。
今も制作を続けていて、出来上がったものは私のヨガ教室に飾っています。
教室の生徒さんたちから「どうやって描くのか」など興味を持っていただくこともあるので、少しずつ紹介していきたいと思います。
このWebサイトのタイトルでもある、Santalum Gardenは、出来上がった絵が神さまの庭の設計図みたいだなあと思って、ハス属を表すSantalumに庭という言葉をくっつけました。
制作や日々のこと、お勧めの本や大好きなインドのお気に入りなどお話していけたらなと思っています。
(2020.4.20)
前回紹介した通り、使うのは定規、コンパス、分度器、ペン、鉛筆と紙です。
まず中心を決めて、水平、垂直の線を引き、分度器を使って水平と垂直の間の45度の線を描きます。
コンパスで円も(適当に)描いておきましょう。これがガイドになります。
中心から描きます。
単純な模様を1つ描いて
繰り返します。
また何か模様を描いて繰り返します。
何か現れてきましたね。
繰り返します。
繰り返しているとこんな絵が現れてきました。
選択し、繰り返し、展開する。
人生のようです。
同じ模様でも描く場所で違う絵になります。
選ぶ色が違うだけでも、ずいぶん違う絵になります。
面白いですね。
何を描いても繰り返せば形になる。
そこにあるのは正解とか間違いとかではなく、しいて言えば好みです。
複雑に見えることも、小さなこと、単純なことの繰り返しなんだなあと。
何か1つ行動を起こす、ということは重要なことで
それを信じて続けることも大事で
現れるものを楽しみにするのが一番大事かもなあ、なんて思いました。
(2020.4.24)
マンダラアートの基本的な描き方を何度か試している内に、ちょっと好きに描いてみたくなりました。
まず思ったのは、もっと色が塗りたい、ということ。
あとはコンパスで描くガイドを少し複雑にして、その線からインスピレーションを得て描いてみるということでした。
実際の絵ではこんな感じです。
どんどん変わっていきます。
「ああ、やってしまった」
「あれ、結構いいかも」
というのの繰り返しです。
出来上がった絵に文字を入れて(なぜか入れたいのです)完成!
〈2019年1月〜8月に教室に飾っていたもの〉
ついつい一気に描いてしまいたくなるけど、頭も体も疲れてくるので、やっぱり少しずつ気の向いた時に、というのが大事なようです。
一晩眠ると昨日は湧かなかったイメージが出てくるのも不思議なことです。
(2020.4.26)
「曼荼羅」というもののイメージとして浮かぶのは、やはり仏様が描いてあるということですが、もう一つ、円と四角でできているというイメージがありました。
仏様は置いといて、四角は使いたい。
コンパスで円を描く時に一緒に、適当な大きさの四角を描いて進めてみました。
四角を入れることで四分割のイメージも強くなります。
全体のバランスを見て、細かい部分を描きたします。
完成!
どこで完成かというのは難しいですが、1つの何かに見えたら終わり、という気がします。
(2020.5.1)
マンダラアートに着彩するのに当初使ったのは、デザインガッシュという粒子の細かい不透明水彩絵の具でした。
使い心地が良く、長く愛用していたからです。
線で描く部分にはステッドラー社のトリプラスシリーズ。0.3ミリの水性カラーペンです。水性のペンは絵の具の上には乗らないのですが、このステッドラーのペンはなぜか乗る。さすがドイツ。優れものです。
ある日、絵を描いている人が私の描いたものを見て、もっと発色のいい絵の具を使った方がいいと言いました。
そこでいろいろ試してみて、日本画の絵の具を使ってみることにしました。岩絵具は高すぎて買えませんので、水干絵具(すいひえのぐ)の小瓶を使いたい色だけ買いました。
瓶に入っているだけでもきれいです。
ご存知の方もおられると思いますが、日本画の絵の具を使うのはとても手間がかかります。
一回ずつ顔料を乳鉢ですり潰して、膠(にかわ)などで溶いて絵の具を作らないといけない。面倒臭くて無意識に避けてたのかもしれませんが、使ってみると発色が理想的でした。
色だけでなく質感も気に入りました。
今はこの水干絵具とステッドラーのペンを使って描いています。
日本画の絵の具だけど、紙は和紙ではなく、ワトソン紙との組み合わせが気に入りました。(私はずっとワトソン紙というのはヨーロッパの紙だと思ってました。さっき日本製だと知りました。びっくりした。)
子供の頃から色を使って遊ぶのが大好きで、今もそれは変わってないのかもしれません。
(2020.5.10)
新緑の美しい季節。
数年前から信号機が少しずつLEDライト式のものに替わってきて、色合いがビビットになりました。
信号の赤色が新緑の緑と合わさるととてもきれいな組み合わせになります。
きっと省エネや信号の見やすさという観点から信号機は取り替えられていってるのでしょうが、生命力あふれる新緑と、超人工的な赤い光が意図せず美しいコンビネーションを生んでいます。
雨上がりに、街路樹の多い通りで信号がズラッと揃う時など、なんというかカッコいい。
信号機はいつでもあるし、紅葉が始まるまで木は緑を茂らせていますが、いつ見てもきれいに見えるわけではないのが面白いところです。
漫画「陰陽師」で安倍晴明の友人、雅楽奏者の源博雅が「楽の音は少し悲しい方が美しい」というようなことを言っていたように思いますが(すいません、うろ覚えです)、「美しい」は「儚さ」のような感覚と関係しているのでしょうか。
心の動きが音に影響を与えるように、心の動きが見ている風景に色を与えて「景色」になるのかなあと。
温度、湿度、風、太陽の当たり具合など自然のコンディションと、感情や思いといった私の内側のコンディションがうまく重なった時、「きれいだと感じる」が起こるのかもしれません。
「好きな色は何色ですか?」という問いに困ってしまうのは、色を一色だけで見ているなんていうことがほとんどないからだと思います。
服を選ぶ時も花を買う時も、その時の好みの組み合わせを考えますもんね。
昔の日本では着物の裏地に趣の違うものを使って、風でひらっとした時なんかにちょっと見える。背中の裏側とか、着る人しか見ないところまできれいな布が使ってあったりしたようです。
見えないところの色まで気を配る、というのは感情の豊かさと、それを楽しむ心の豊かさがあったのだと想像します。
新緑の緑と信号の赤、カッコいいですよ。
(2020.5.25)
画材を日本画の絵の具に変えたことで、色のコントロールが前より難しくなりました。
絵の具がガラスの容器に入っている時と、実際に描いた紙の上とでは色が違うからです。
市販のチューブに入っている絵の具は、にゅーっと出した色のまま紙にのって、乾いてもそこまで色は変わりません。思った通りに仕上がります。
でも日本画の絵の具はちょっと違います。
水と膠を加えた時点で一段階濃く、深くなります。乾いたアスファルトに雨粒が落ちたら色が変わるのと同じ感じの変化です。
乾くとさらに変化します。
大袈裟に言うなら、陶芸の釉薬を塗った時と焼き上がったもので全然色が違う、それにちょっと似ています。
なんで色が変わるのか、わかりません。
もう1つ、白色の使い方があります。
白色というのは、絵の具の種類によって表面に出てくる度合いが違います。
日本画の白の顔料は胡粉といって、貝殻の粉です。この貝殻の粉がマットで美しい質感を醸し出すのですが、まだまだ使いこなせていない感じがします。
紙と色のテスト。
下にいくほど胡粉が多い。
この計算できない感じが苦労するところでもあるし、面白いところでもあります。
この組み合わせがいいだろう、と思って作業を進めていくと、それは想像していた色とは違うのです。計画が狂います。
コントロールできないこと、は自分の好みに近づかないような気がしますが、そこには新しい可能性が広がります。
想像通りに進むことより自分の知らないものが出てくる方が楽しいです。
だけど、まったく何も計算せずに、現れるままに「次これが欲しい、次これ」と進めていくと、あっという間に極彩色、神さまの世界です。取り留めのない散漫なものになります。
完全にコントロールしようとすると出来上がるものは小さくなってしまうし、全部委ねるとぐちゃぐちゃになって何がしたかったのかわからなくなる。なんだか人生のようです。
自分の希望を伝えてみたり、自然に現れる変化にうわーっとびっくりしたり、へえーっと感心したり。
時に悪戦苦闘しながら、ちょうどいい感じを目指す。この「神さまとの対話」みたいな時間が楽しいのでした。
日本画の絵の具を使って仕上げた作品
(2020.6.11)
私は小学校と中学校に通う間、お習字を習っていました。
近所のおばあちゃん先生のところに、週に1度通いました。
一番最初は毛筆ではなく、鉛筆を持ってひたすら平仮名を書く練習をしました。
文字を形として認識していくのに大切な過程だったと今も思います。
さて、この文字に時々不思議なことが起こります。
たたたたたたた、
ぬぬぬぬぬぬぬ、
同じ文字をずっと書いていくと急にわからなくなります。あれ、「ぬ」てこんな字だったっけ?
ゲシュタルト崩壊です。
[全体性を持ったまとまりのある構造から全体性が失われてしまい、個々の構造部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象]ということのようです。
「木を見て森を見失う」でしょうか。
漢字を見てキョトンみたいに、完全に意味がわからなくなることはないにしても、あれ?なんかよくわからなくなってきた、という経験は誰にでもあるのではないでしょうか。
これがマンダラを描いていても起こります。
同じ模様を繰り返して描いて、また違う模様を繰り返して描いて、としているうちに、何かよくわからなくなってしまうことがあります。
文字以上に正解のない表現の世界。
マンダラの全体性ってなんだろうか。
絵の全体性ってなんだろうか。
そこにはどうも「私の思い」というのが関係していそうです。
「これがいい」という、ちょっとした好みが私自身の何かを表しているように思います。
マンダラを描くのは細かい作業ですから、ついつい近くを見続けて描いてしまいそうになりますが、時々遠くから見てみることで、そこに現れてきているものを、客観的に見ることができます。
思い通りの表現をするには、ぐっと集中して作業することと、客観的な視点を持つことの両方が大事なように思います。
ゲシュタルト崩壊もデジャヴも、脳の疲労だと言ってしまえばそれまでだけど、もしかしたら何か新しいことが起こっている時にも、既存の見方を一旦手放す、ということが起こるのではないか、と思うのでした。
(2020.7.2)
新型コロナウィルスによる影響で、私のヨガ教室も2ヶ月近く休業をしていました。
休んでいる間、将棋の中継をわりとよく観ていました。
2年くらい前から時々トーナメント戦などを観戦していて、棋士の先生たちにもずいぶん詳しくなってきました。
ずっと観ているけど将棋そのもののルールはあんまりわかっていません。だけど名の知れた棋士の人たちの対局は解説もつくので、楽しく観ていられます。
たった81升、たった40駒。
いつも同じような始まり方をして、違う展開が起こります。
ものすごい数の棋士の人がいて、ものすごい数の対局をするのに、同じことが起こらない。(たぶん)
このことに感嘆してしまいます。
どうなってるんだろう。
棋士の人たちには、その対局の時に見えている景色があるのではないかと思うのです。そしてストーリーがあると思うのです。それが言葉にできるものかどうかはわからないけど、あっという間に形勢が180度変わったり、想像もしない展開が起こったり、ヘロヘロになって変な展開になったり、ずいぶんドラマチックに見えます。
棋風という言葉があるように、その人の人となりが駒運びにも現れるようです。
さて、将棋観戦の合い間に私は絵を描いていました。あ、逆ですね、絵を描く合い間に将棋観戦です。
マンダラを描くのも、単調と言えば単調な作業です。
中心から描き始めてだいたい同じような絵から始まる。
何かを見て描いたりはしないので、同じような持ち物(モチーフ)で同じような作業が続きます。でも描いている私は常に可能性のようなものを見続けています。
どんなに考えても駒を実際に動かしてみないと次の展開は起こらないのと同じように、頭の中でいろんなアイデアを思い浮かべても、実際に描いてみないとその先の可能性は見えてこない。
可能性というのが「今は想像もつかない何か」であることを思えば、一生懸命考えることの他に、「何か喜んでいる」「何か面白がっている」という思いが、大きな力を生み出す素になるのではないか。快挙を成し遂げた藤井聡太新棋聖を見ながら、しみじみそう思うのでした。
小さくて大きい81マスの世界。そこに魅せられ、なぜか心癒されてしまうのは、そこにいる人たちがみんな「将棋が好き」だからだと思います。
(2020.7.23)
急にできた休暇を使って描きました。
家の中にばかりいたせいでしょうか、小さい作品です。
月に1度、お気に入りのティーハウスへ行きます。
ティーカップが運ばれてくる時が一番楽しみな瞬間です。小さなお店だけど、いろんなティーカップでお茶を出してくれます。
なんとなくお客さんやその時の空気でティーカップを選んでおられるのではないかと思うのですが、目の前に置かれるカップに「おー今日はこんなのか」としみじみ。
人は丸いものを見ると安心する、という話を聞いたことがあります。
ちょうど真上からティーカップを見ると細かい模様や様々な色と、重なる円形がマンダラのように見えることがあって、そこにお茶を入れると小さな宇宙になります。
グルグルかき回してミルクを入れてその渦をしばらくぼんやり見ていると、そのうち意識がはっきりしてきて気分が明るくなります。
Eureka。
やる気や閃きってどこからやってくるのか、小さな宇宙を見ながらそんなことを考えたりします。
ふと壁に絵が描いてみたくなりました。
大きな絵を描きたいのではなく、漆喰の質感に絵の具で何か描いてみたくなったのです。
漆喰とパネルを買って小さな壁を作りました。
色使いだけ決めて、描き始めました。
出来上がった絵がこれです。
なんということもない絵で、でも毎日見ていられるので悪くないなと思います。
ここはもっと隙間を空けたかったな、とか頭の中でお直しが起こるので、きっと次にする何かにそれが反映されるのではないでしょうか。
たった今感じていることは必ずこの先のどこかに反映される、それは20年ヨガをしている中で感じることでもあります。
どんな失敗も次への可能性を含んでいることが見えると、「うまくいかなかった」という経験は「こうしたい」という希望がはっきり現れた瞬間でもあるように思います。
(2020.8.13)
私が大学を受験した頃は、美術系の大学に入ろうと思うと、デッサンを学ぶ必要がありました。今もそうなんでしょうか。
鉛筆を使って題材を描いていくのです。
2H、H、F、HB、B、2B、、、、6B
使い分けられてるんだかないんだか、濃さの違う鉛筆をいっぱい並べてアスパラだの茶筒だのゴミ箱だのアルミホイルだの、様々なモチーフをなるべく写実的に描く訓練をします。
美大を目指す受験生は手の側面を真っ黒にしながらモノクロの表現と格闘する日々を送るのです。
デッサンは色を塗るという作業はせずに、ひたすら線を重ねて表現していきます。
この作業を繰り返しているうちに、ものには輪郭という線は存在しないことに気づきます。
輪郭の線というのは私たちがものを捉える時に作り出している概念なのです。
線を使って色や面を表しているうちに、ものの存在を深く感じとる力がつくような気がします。
古代の壁画なんかに牛やら人やらが描かれているのが今も残っています。昔々の人が感じ取った牛という存在が線によって表されている。
ものの存在を体で捉えることができて初めて、それを表す線が描けるようになるのだと思います。
線で何かを描くという行為にはその人の人となりが現れる気がします。
文字が1人ずつ違うように、話し方が1人ずつ違うように、線で表す絵も1人ずつ違いを持って現れます。
モノクロの世界で悪戦苦闘したおかげで、もう1つ、色を使って表す喜びのようなものをはっきり感じるようになりました。色で表すことは人となりというより、たった今の好み、これが美しかろう、これがカッコよかろうという美学のようなものが現れる気がします。
「好きな色に塗っていい」
それは私にとって幸せな言葉です。
線の表現は私を少し緊張させ、色の表現は私を自由にしてくれます。
戸惑ったり喜んだりしながら出来上がる作品に、自分自身を見て「へえ〜」と感心するのでした。
これは珍しく先に線を描いて描き進めた作品です。
(2020.10.8)